吉井勇日記にみる馬町空襲

少し前の記事ではありますが、2018年3月30日の京都新聞26面に掲載された「歌人吉井勇の日記に京都・馬町空襲」は、当館所蔵の吉井勇の日記を研究した静岡県立大学の細川光洋教授の研究成果※1を紹介したものです。

京都の馬町空襲とは、1945年(昭和20)1月16日の夜、アメリカ軍による京都市東山区の馬町への爆撃により、死者が30名を超える大きな被害を出した空襲です※2。京都で最初の空襲であり、6月26日の西陣空襲とともに、京都の戦争被害を語るものとして記憶されています。

吉井勇(1886年(明治19)~1960年(昭和35))は東京都出身の歌人で、祖父は薩摩藩士吉井友実、父は伯爵吉井幸蔵です。神奈川県、高知県などに住んだ後、1938年(昭和13)に京都に居を移し、終戦前後の一時期を除き、京都に住み続けました。そのときに書き残した日記が当館の吉井勇資料の中に収蔵されています。馬町空襲について記すのは「洛東日録・北陸日記」(吉井勇資料No.2455)で、1944年(昭和19)9月20日から翌1945年2月8日までの出来事を綴った部分は「洛東日録」と名付けられています。

馬町空襲のあった時、吉井勇は妻の孝子とともに、馬町から2キロほど北にあたる左京区の岡崎円勝寺町に住んでいました。午後9時前に就寝した吉井は、まもなく「轟然たる爆裂音」に目を覚まします。爆裂音を聞いて「まさに投弾とおもふ」と書いています。飛行機の爆音を聞いた後に警戒警報が発令され、敵機は京都の北方から名古屋に向かうと知らされ、警報解除とともに午後11時50分には再び床に就きました。

翌日の日記には、川柳作家の岸本水府(きしもとすいふ)から聞いた話として「爆音と同時に煙硝の匂ひを嗅ぎたり」とし、また別の人からの話として「昨夜の爆撃は五条阪なるよし」とも記しています。五条阪(坂)は、馬町の北側に当たります。吉井はこの日の夜からいつでも避難できるように準防空服で寝るようにしました。翌18日には「一昨夜の投弾は九個。死者三十名ほど」として、「いよいよ戦禍身近に迫るの感あり」と綴っています。

日記には、その後も19~21日、23~27日と、ほぼ連日にわたって警戒警報の発令について書かれています。22日には、「東山あたり疎開する者多しといふ」と記し、吉井自身も「疎開すべきや否やについて孝子と語る」と話し合っています。24日には「熟考の結果疎開と決定」とし、富山県八尾へ疎開することを決めました。そして2月9日には八尾へ出発し、この日より「北陸日記」と改めています。

参考
※1 細川光洋「吉井勇の戦中疎開日記(上)―「北陸日記」抄 」『国際関係・比較文化研究』(静岡県立大学国際関係学部) 第16巻第2号、2018年3月。
※2 この空襲については、「馬町空襲を語り継ぐ会」(2018年に解散)のホームページに詳しく紹介されています。

1月16日の空襲を記した部分 (傍線部)