資料詳細
基本情報
項目 | 内容 |
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(和暦)年月日 | 明治32年8月15日 |
(西暦)年月日 | 1899/08/15 |
巻数 | 7、7 |
区分 | 建設・交通等、建設・交通等 |
内容 | 京都鉄道嵯峨・園部間開通し、京都・園部間開業。*1、*1府下産業の発達をはかるため、両丹を縦貫して京都・大阪に通ずる大鉄道の敷設が考えられ、北垣知事も大いに民間の企業心を刺激した。明22、田中源太郎・浜岡光哲・高木文平等相計り、京鶴鉄道(京都-舞鶴)を発起し、政府に出願したが却下された。 同24、帝国議会において鉄道問題が論議されるに当り、政府当局に官設による山陰線の敷設の猛運動を開始した。翌25、鉄道法が公布され、京都から舞鶴に至る鉄道は第1期線に加え議決せられたが、別の兵庫県土山より福知山を経て舞鶴に至る線と共に比較線として掲げられた。 明27/6、法律第8号をもって鉄道敷設法第7条中、近畿予定線路は新たに京都から舞鶴に至る線を採択することを公布せられ、同時に法律第13号をもって敷設は、私設会社に許可するを得るものと定められ、翌28/11/5をもって正式に京都鉄道(株)設立の免許状を受けた。 会社は上京区鍛屋町に本社を置き、小川資源を技師長に聘して工事計画に当らせ、翌29/4京都を起点として工事に着手した。 工事着手後、大車輪をもって竣成を急ぎ左の順序により京都・園部間21里の竣工開通を見るにいたった。 :竣工月日:区 間: :明30/2/15:二条・嵯峨間: :同:4/27:大宮・二条間: :同:11/16:京都・大宮間 :同32/8/15:嵯峨・園部間: この区間中嵯峨・亀岡間に隧道8ヵ所をとおし、橋梁も全区間において51ヵ所の多きに達した。就中保津川橋梁は280尺を架するなど予定以上にばく大の建設費(嵯峨・亀岡間は1哩33万5,000円)を要したので、会社の収支は到底償わず、これ以上の建設工事は見合さねばならぬ窮状に陥り、会社は明33/11/30、園部以北工事未成部分の免許取消を出願、34/6認可された。ついで同40/8/1、鉄道国有法の発布と共に、京都鉄道全線は政府に買収せられ会社は解散することになり、翌41/2、総額334万円をもって買収された。 国有鉄道となった後、明37、福知山・舞鶴間開通し、同43、綾部・園部間開通し京都鉄道予定線の両丹と京都間縦断線の全通をみ、今日の山陰線の基を開いた。 |
出典 | 日出 8/15、田中源太郎翁伝 |
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