京都に子午線があった時代

皆さんは井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだことがありますか?

その主人公は伊能忠敬、全国を測量し、文政4(1821)年に「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(別名「伊能図」)という非常に正確な日本地図を作成しました。シーボルトが国外追放になった原因もこの伊能図を国外に持ち出そうとしたからです。

伊能図には、経線と緯線が書かれており、「中度」と書かれた経線(標準時子午線)は京都を通過しています。

京都では江戸時代の初めから天文観測を行っていました。その場所は天文博士の土御門家(安倍氏)の屋敷のあった梅小路付近であり、貞享暦を策定した渋川晴海もそこで観測したと言われています。

その後、幕府は二条城西側の三条台(今の中京区西ノ京西月光町)で天体観測を行う改暦所が作られました。現在その跡地には神社が建っています。
「伊能図」の標準時子午線はこの改暦所を基準にしています。このことは幕末に刊行された当館にも所蔵のある「官板實測日本地圖(かんぱんじっそくにほんちず)」でも確認できます。この地図は伊能図を基にした地図で、京都の標準時子午線上に「改暦所」との記載も見られます。

経線と緯線の交わるところに「改暦所」との文字が見える。

ところが、標準時子午線は太陽暦を採用した明治6年に東京に移り、その後明治17年に国際子午線会議にて、グリニッジ天文台が本初子午線となり、明治21年に今の明石市を通る東経135度が標準時子午線になりました。