資料紹介「美濃屋彦三郎農具売出引札版木」

農具版木画像

こちらは下京の篩(とおし)商が印刷した引札(商品広告)の原板で、2018年(平成30年)度に京都府立京都学・歴彩館に寄贈されました。当館では古文書資料として受け入れました(館古652の1号)。

篩商とは粒と粉などを選り分ける道具(「とおし」または「ふるい」と言う)を製造販売する店です。金網商(金網細工所)が兼ねることもありました。京都には下京に数店舗あり、千石(せんごく)とおし、万石(まんごく)とおしなどの農具を作っていました。金網商では、蠅不入(はえいらず)や水嚢(すいのう)などの台所道具も作られていました。

「美濃屋彦三郎農具売出引札版木」刷り見本

「美濃屋彦三郎農具売出引札版木」刷り見本

この引札には、中央に唐箕(とうみ)、万石(千石)、稲扱(いねこぎ)の農具の絵が描かれています。このうち篩商が作るのは万石のみで、唐箕と稲扱は商品を引き受けて取り扱っていました。右側の文字部分にはそのことが書かれています。篩は製品の販売だけでなく、金網部分の張替え、締め直しなどの整備もしますと書いています。左側には「右、此度相改メ大下直ニ売出し差上可申候間、たんとたんと御用向御頼申出候、以上」(大幅値下げで売り出しますのでたくさんお買い求めください)と売り口上が書かれています。篩だけでなく、唐箕と稲扱を一緒に載せているのは、いずれの農具も秋の収穫期に使うからです。唐箕は指物大工、稲扱は鍛冶屋が作ることから、関連業者の連携による販売を試みていたと言うことになります。

この引札を発行したのは、松原烏丸西入の美濃屋彦三郎です。美濃屋の屋号のみを記すことから、江戸時代(後期)のものと思われます。美濃屋彦三郎は、1878年(明治11)の『売買ひとり案内』という京都の商工人名録に、「とおし商」として載る「松原室町東 長瀬彦三郎」と関係すると思われます。

売買ひとり案内』(明治11年)(分冊番号:1 コマ番号:12)

松原室町東と松原烏丸西入は同じ住所であることから、美濃屋彦三郎は明治になって長瀬彦三郎の名前で営業をしていたと考えられます。

江戸時代後期の農具の引き札の版木自体でも注目できる資料ですが、美濃屋彦三郎(長瀬彦三郎)の墨書名のある農具は、京都府の亀岡市文化資料館、滋賀県の栗東歴史民俗博物館、福井県立若狭歴史博物館の3ヶ所に所蔵されていることがわかっています。亀岡市文化資料館のものは胴の中央柱に「松原烏丸西入美濃屋彦三郎工」の墨書があります(『農具たちの同窓会』、2000年)。栗東歴史民俗博物館のものは、栗東市下戸山で米と糠(ぬか)を分ける道具として共同で使われていました。柱部分に「京松原烏丸西入美の彦工」とあります(『栗東歴史民俗博物館紀要』第10号、2004年)。福井県立若狭歴史博物館のものは1982年に遠敷郡上中町(現三方上中郡若狭町)内から寄贈されたもので、胴の中央柱に「京松原烏丸西入美の彦工」の墨書、下部の板に「京都市 松原通 烏丸西入 長瀬彦三郎工 大極上々者」とあります(『収蔵資料目録 民俗1』、福井県立若狭歴史民俗資料館、1987年)。3基ともに半唐箕という篩付の小型唐箕で、その点に美濃屋の技術が生かされていると思われます。京都で造られた農具が、丹波、近江、若狭にまで買い求められて使われていたことは、この美濃屋製の唐箕以外には知られていません。この引札版木は、農具の製作地や流通を考える上からも貴重な資料だと言えます。