京都舎密局の笠置町の写真

京都府南部の相楽郡笠置町は、木津川中流域にある山間の町です。木津川の南側にある笠置山は大きな岩場の露出する山で、山上には真言宗の笠置寺があり、山麓には温泉もある観光地です。歴史的には、鎌倉時代末期に討幕に失敗した後醍醐天皇(元弘の乱と呼ばれます)が一時的に避難した場所として知られ、それに関わる史跡などがあります。

当館の所蔵する『撮影鑑(さつえいかがみ)二』(当館所蔵:貴||||T36)には、笠置町に関する写真として有市村の炭酸泉と笠置山に関するものがあります。『撮影鑑』は1881年(明治14)の制作で、1889年(明治22)に笠置町ができる前なので、有市村、笠置村の時代です。有市村炭酸泉は明治5年(1872)3月に発見された炭酸泉で、京都舎密局により成分が調べられました。写真には、木津川の河床の炭酸泉の湧出場所が写っていて、そこには「御用之外不可汲取」と書いた明治5年4月に京都府が出した禁制の立て札が見えます。

笠置山の写真は、笠置寺の薬師石弥勒石虚空蔵石と呼ばれる巨石、元弘の史跡の岩門城跡、山から俯瞰した北笠置の風景が写ります。笠置寺の弥勒石等は仏像を刻んだ磨崖仏でもありますが、草木が茂っていて仏像の姿ははっきりと見えません。北笠置の風景には、集落内の米蔵、浜に並ぶ船が写っていて、当地の領主でもあった伊勢国の津藩の積出港としての役割も果たした笠置浜の歴史が感じられます。

1877年(明治10)1月末、明治天皇は孝明天皇10年祭のため京都に来ました。その時、京都舎密局は笠置の写真6枚を明治天皇が滞在している京都御所に持ち出しています(「京都府行政文書」文No.文書563-2)。この6枚が、『撮影鑑』にある笠置寺の巨石、元弘の史跡、北笠置の写真と同じものと思われます。天皇は2月7日に京都を発って奈良に行幸しました。その時、木津川市の泉大橋付近から笠置山方面を眺めたことでしょう。その時、この写真のことが話題になったのではないかと思われます。

(写真資料から91 資料課 大塚活美)