京都舎密局の写真

明治年間初期の京都の写真集である『撮影鑑(さつえいかがみ)二』(当館所蔵:貴||||T36)については、「写真資料から60」で、その成立の経緯について触れてみました。そこでの結論は、京都舎密局(せいみきょく)の原板を使って1881年(明治14)4月に作られたこと、同じ月に開催された第二回内国勧業博覧会と関係するのではないかということでした。

そして、現存しない『撮影鑑 一』については、1877年(明治10)3月の京都博覧会の博物館陳列目録(珍事集201)に、「内侍所、紫宸殿、御庭花、八坂神社、錦織野、御祖神社、銀閣林泉、知恩院楼門、東山鉱泉所、永観堂伽藍、別雷神社、真如堂伽藍、天橋」とあるのでそれらの写真が含まれていたのではないかと推測しました。

撮影鑑二(表紙裏)
珍事集No.201「京都博覧会中博物館陳列品目録 : 別三編 : 明治十年」(部分)

一方近年公開された、宮内庁書陵部の所蔵する『京都府名勝撮影帖』2帖(同所の資料目録・画像公開システムによる)は、『撮影鑑 二』の写真と重複するものが数多くみられます(※)。来歴については、1877年(明治10)3月の明治天皇の京都行幸に際して、京都舎密局の明石博高(ひろあきら)より京都府知事槇村正直を通じて天皇に献上されたもので、舎密局の受講生が制作した写真帖です。「写真資料から60」で推測した京都御所(内侍所、紫宸殿、御庭花)、八坂神社、などの写真も含まれていて、ここから『撮影鑑 一』の写真が具体的にわかるようになりました(※※)。

また、当館の古文書の『京都皇居写真』(館古609)は、1878年(明治11)に発売されていた京都御所などの写真10枚と写真目録です。目録は1905年(明治38)に歴史研究家で京都府職員でもあった湯本文彦が記したもので、それによると勧業局舎の土蔵整理の際に発見され、皇居の写真10枚と槇村知事時代の建築物・工場など38枚あったと書かれています。

『京都皇居写真』(館古609) No.2 紫宸殿

そのうち京都御所の写真(館古609のNo.2~9の9枚)は、キャビネ版よりも一回り大きな紙焼き(八つ切)を台紙に貼ったもので、表面には「京都府文庫」の印、裏面には「京都府蔵版章」「不許複写版権所有」「明治十一年二月廿八日届」「定価金弐拾五銭」の印・判があります。写真の画像は、紫宸殿、清涼殿、内侍所鳳輦舎、車寄など京都御所内の建物で、湯本の記録によると京都博覧会の開催時に京都府が撮影して発売したものとあります。

前年の1877年(明治10)は1月から7月にかけて明治天皇の関西行幸があり、京都御所を使用するために建物の修築等が行われました。1878年(明治11)3月15日から始まる第七回京都博覧会では、御所の特別拝観の企画が実施されました(※※※)。日付から類推して、写真はその際の記念販売物として準備されたものと思われます。「京都府蔵版」とあるのは、写真の原板が京都府にあったためでしょう。その写真は『京都府名勝撮影帖』所載の写真と同じ図柄であることから、京都舎密局が1877年(明治10)3月までに撮影したものを翌年に利用したと考えられます。

(※)宇治市歴史資料館『写真展よみがえる明治の日本: 特別展』(2017年)。
(※※)白石烈「宮内省図書寮における明治・大正両時代御手許写真の整理(附目録)(『書陵部紀要』第69号、2018年)。
(※※※)京都博覧協会編『京都博覧協会史略』、1937年

(写真資料から90 資料課 大塚活美)