吉井勇日記にみる馬町空襲

少し前の記事ではありますが、2018年3月30日の京都新聞26面に掲載された「歌人吉井勇の日記に京都・馬町空襲」は、当館所蔵の吉井勇の日記を研究した静岡県立大学の細川光洋教授の研究成果※1を紹介したものです。

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黒川翠山・石井行昌撮影写真資料の複写写真

当館の黒川翠山撮影写真資料は、写真家の黒川翠山が撮影したものですが、一部に複写した写真も含まれています。1443番の「轜車(じしゃ)」 (柩車)は、『明治天皇御大喪儀写真帖』*1(1912年(大正元)刊)に載るものと同一で、そこには「陸地測量部撮影」と書かれていました。

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茶道具を擬人化? 中国の茶書『茶具図賛』

動物、刀剣、軍艦、国・・・さまざまなモノを擬人化した漫画、アニメ、ゲームなどが流行していますが、700年前の中国でも道具を擬人化して解説するユニークな書籍が刊行されました。それは『茶具図賛』という茶書で、茶道具を人に見立てて紹介しています。

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写真資料のガラス原板

当館にある石井行昌と黒川翠山の写真は、ガラス原板で保存されています。アナログ写真の時代には、写真の像を写し取る感光材としてフィルムやガラス板を使っていました。写真の発明された1840年代には金属の銀板を使い、1850年代にはガラス板を使う湿板写真、1870年代以降には乾板写真へと変わっていきました。石井行昌と黒川翠山の写真(1890~1940年代)は、このガラス乾板の時代のものです。

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石井邸で撮影した人物写真

石井行昌撮影写真資料のNo.383~610は、主として人物写真です。家族写真も含まれますが、誰を写したのかわからない写真が数多くあります。撮影場所は屋内のものもありますが、屋外のものが大半です。人物の背景に注目すると、板塀、土塀、扉、庭の前で写しているものが多く、他の写真と比較するとその場所が石井邸であると言えそうです。

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伊達政宗泰山府君祭都状案

「泰山(たいざん)」とは中国山東省にある山で、道教の聖地である五岳のひとつとして古くから信仰を集めてきました。泰山の山頂には人間の寿命を記録した帳簿が置かれていると信じられ、「泰山府君(たいざんふくん)」という中国古代の神が祀られていました。
泰山府君は仏教の閻魔大王と習合して人間の寿命の帳簿を管理する支配者であり、人々はこの泰山府君に対して死者の帳簿を削ってもらうことで、延命長寿を祈願しました。

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京都舎密局の笠置町の写真

京都府南部の相楽郡笠置町は、木津川中流域にある山間の町です。木津川の南側にある笠置山は大きな岩場の露出する山で、山上には真言宗の笠置寺があり、山麓には温泉もある観光地です。歴史的には、鎌倉時代末期に討幕に失敗した後醍醐天皇(元弘の乱と呼ばれます)が一時的に避難した場所として知られ、それに関わる史跡などがあります。

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京都を襲った大火の記録

2018年は大阪北部の地震や豪雨、台風上陸もあり、酷暑も重なって多くの災害が発生した年となっています。
このような災害が発生するとテレビや新聞で多くの情報が流されますが、江戸時代でも火災や地震などが発生するとその状況・経緯をまとめた本が多く刊行されました。
それらの資料は過去の災害を知る貴重な記録や教訓となっています。

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京都舎密局の写真

明治年間初期の京都の写真集である『撮影鑑(さつえいかがみ)二』(当館所蔵:貴||||T36)については、「写真資料から60」で、その成立の経緯について触れてみました。そこでの結論は、京都舎密局(せいみきょく)の原板を使って1881年(明治14)4月に作られたこと、同じ月に開催された第二回内国勧業博覧会と関係するのではないかということでした。

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市電の歴史の一幕を証言する古写真資料

鉄道ファンの方なら「知っているよ」とおっしゃるかもしれませんが、皆さんはこの一枚の写真をご覧になって何か違和感がありませんか?

市電(四条大橋)」(石井行昌写真資料 No.183)

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石井行昌氏撮影の伊勢・二見の写真

石井行昌撮影写真資料(乙)は、1997年(平成9)に寄託された写真資料535点です。石井氏生存当時の紙焼き写真、購入写真帖などからなっています。この資料群には、これまで紹介している石井行昌撮影写真資料には見られない写真もあります。その一群が伊勢・二見の写真で、写真帖に8枚の紙焼き写真が収められています。

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京都に子午線があった時代

皆さんは井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだことがありますか?

その主人公は伊能忠敬、全国を測量し、文政4(1821)年に「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(別名「伊能図」)という非常に正確な日本地図を作成しました。シーボルトが国外追放になった原因もこの伊能図を国外に持ち出そうとしたからです。

伊能図には、経線と緯線が書かれており、「中度」と書かれた経線(標準時子午線)は京都を通過しています。

京都では江戸時代の初めから天文観測を行っていました。その場所は天文博士の土御門家(安倍氏)の屋敷のあった梅小路付近であり、貞享暦を策定した渋川晴海もそこで観測したと言われています。

その後、幕府は二条城西側の三条台(今の中京区西ノ京西月光町)で天体観測を行う改暦所が作られました。現在その跡地には神社が建っています。
「伊能図」の標準時子午線はこの改暦所を基準にしています。このことは幕末に刊行された当館にも所蔵のある「官板實測日本地圖(かんぱんじっそくにほんちず)」でも確認できます。この地図は伊能図を基にした地図で、京都の標準時子午線上に「改暦所」との記載も見られます。

経線と緯線の交わるところに「改暦所」との文字が見える。

ところが、標準時子午線は太陽暦を採用した明治6年に東京に移り、その後明治17年に国際子午線会議にて、グリニッジ天文台が本初子午線となり、明治21年に今の明石市を通る東経135度が標準時子午線になりました。

丹波国世木から山城国嵯峨までの大堰川筋絵図について

これらの絵図には、世木から保津(現・亀岡市)まで、保津から嵯峨の渡月橋に至るまでの大堰川が描かれています。

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大石内蔵助の隠棲地、岩屋寺

「忠臣蔵」で有名な、主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の無念を晴らそうと吉良邸に討ち入った赤穂四十七士。そのリーダー大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は討入り前に京都、山科の地に住んでいました。その隠棲地として知られるのが、山科区西野山桜ノ馬場町にある岩屋寺です。

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琵琶湖疏水図誌

琵琶湖疏水工事の様子を記録した画帖です。『琵琶湖疏水工事写真帖』とともに、工事の様子を伝える貴重な記録資料です。

この画帖の作者の河田小龍(かわだしょうりょう)(文政7(1824)年~ 明治31(1898)年)は、土佐藩士の家に生まれ、坂本龍馬や中浜万次郎(ジョン万次郎)とも親交がありました。

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